第1回
東京の横須賀藩士たち(1)
特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)
冀北学舎を卒業した山崎覚次郎が東京大学予備門を受験するため明治15年(1882年)に上京して、従兄弟の丘浅次郎とともに坪内逍遥の指導を受けたことは掛川市のホームページにも出ており比較的知られているが、同時期に冀北学舎を卒業して逍遥の指導を受けた永冨雄吉のことは余り知られていない。
山崎覚次郎(1868~1945)経済学者。貨幣論・金融論を研究。
丘浅次郎(1868~1944)動物学者。進化論の紹介で知られる。伯母が覚次郎の母。
永冨雄吉(1868~1929)横須賀藩家老 永冨謙八の嫡男。日本郵船副社長。
ところで覚次郎はなぜ逍遥の指導を受けることになったのだろうか。これは、横須賀藩士で東京専門学校や英吉利法律学校(それぞれ、早稲田大学・中央大学の前身)の設立に関与した岡山兼吉の紹介によるものである。少し遠回りになるが、岡山兼吉の係累について見ておきたい。
岡山兼吉の祖父庄兵衛は東大谷の農民(山廻り)であったが、学識を西尾侯に認められて士分に取りたてられた。庄兵衛の嫡男定基は父同様に学識豊かで、特に算術に長けていたので、代官に始まり、最後は家老に次ぐ「元締」職になった。定基は永冨謙八の幼い頃に懇切に世話をしたので、永冨が長じた後に要職に引き上げたという側面もあったようである。
定基の長男は早世したため、次男定恒が家を継ぎ、鵜飼常親の娘マツを娶った。三男喜代次は英国ロンドンで苦学しつつ航海術を修め、明治10年(1877年)の帰国後は郵便汽船三菱会社に「船長運転手」として入社したが、明治14年(1881年)に32歳で死亡した。四男が兼吉で、下に長女のタメ子がおり、沼田藩士鈴木湊に嫁している。
兼吉は安政元年(1854年)に横須賀三番町に生まれ、慶応元年(1865年)に三好家の養子となったが、三好家が藩の忌諱に触れて閉門謹慎を申しつけられたため、明治元年(1868年)に岡山家に戻り、横須賀藩が花房(千葉県鴨川市)に転封された後の明治3年(1870年)に赤岩家の養子となった。
兼吉は横須賀藩校時代から優秀さで知られていたが、養父亀六は兼吉が勉学することを好まず、灯火を取り上げたりしたので、永冨謙八が岡山定基と談判し、兼吉は永冨の支援を得て明治9年(1876年)に坪内逍遥らと同期で東京開成学校に入学、明治15年(1882年)に同校の後身である東京大学を卒業した。なお逍遥はフェノロサの講義を落としたため1年遅れで卒業している。
また、兼吉が東京大学在学中の明治13年(1880年)10月に、山崎徳次郎(覚次郎の父)・山崎千三郎(徳次郎の弟)・岡田良一郎・河井重蔵・永冨謙八・岡山定恒らの出資により、掛川銀行が設立され、山崎千三郎が頭取となった。
掛川銀行は同年11月に東京支店を、翌年5月に横浜出張所を開設している。
すると山崎覚次郎は、叔父の千三郎が懇意であった岡山定恒の弟である兼吉を頼って上京し、兼吉は東京大学の同級生であった逍遥を紹介したということになる。覚次郎と逍遥の交流は長く続き、『坪内逍遥書簡集』には大正5年(1916年)の覚次郎あて逍遥書簡が収録されている。
また、冀北学舎を卒業した嫡子の雄吉を指導してくれる人物を探していた永冨謙八は、この縁で逍遥と知り合い、その支援者となった。なお、日本橋浜町の住人である永冨謙八が、雄吉を東京の学校ではなく冀北学舎に入学させたのは、岡田良一郎に深く共感していたためだろう。
永冨は金銭的な支援のみならず、逍遥が落籍した根津遊郭の遊女センを鵜飼常親の養女にして(つまり士族にして)逍遥との媒酌の労を取ったので、逍遥は永冨を「一生の恩人」としている。
ところで掛川銀行東京支店は当初、永冨の日本橋浜町の自宅を店舗とし、岡山定恒を支配人、鵜飼常親を行員として開設されている(行員は5~8人だったようだ)。また横浜出張所には岡山兼吉の妹婿である鈴木湊が勤務し、兼吉自身が後に法律顧問になっている。つまり掛川銀行の首都圏営業は横須賀藩士のネットワークが支えていたと言えるだろう。
(また、鵜飼常親の子息の斧弥は掛川銀行島田支店に勤務している。なお、坪内逍遥は永冨を「掛川銀行頭取」としているが、当否は未詳である⇒第一国立銀行の設立当初に頭取が2人いたように、掛川銀行も山崎千三郎と永冨謙八の双頭体制だった可能性があるという意味です)。
いずれにせよ、「武士の商法」で没落する士族が多い中、彼らの理財センスは驚くべきものがあると言えるだろう。
なお、兼吉の2度目の養父赤岩亀六は、藩内の有力な家柄であったが、商売(料理店)に失敗し、飲酒癖もあったため、没落したとされる。
これは余談だが、養父母の赤岩亀六・ノブ子については岡山兼吉没後の翌年に編纂・刊行された『梧堂言行録』で「非情な養父母に対しても孝行を尽くす健気な兼吉」というステレオタイプな描写がされている。しかし、これは割引して読むべきだろう。例えば養母が実子を得た後に「乳の出が悪いので鯉を食べたい」と言ったため、兼吉が苦労を尽くして鯉を得たエピソードは『二十四孝』,『南総里見八犬伝』(※)に想を得たものと思われる。(※「安房国に鯉はいない」という名場面あり)
ただし、兼吉が赤岩亀六の遺児 政治を東京に呼んで養育したという記述は事実と思われる。
また永冨謙八の嫡子雄吉は、大正5年(1916年)の時事新報社による「全国50万円以上資産家調査」では150万円と、旧藩主である西尾忠方子爵(60万円)の2.5倍の資産家になっており、その嫡子謙一の妻は伊藤博文公爵の孫娘(正確には井上馨侯爵の甥で、伊藤公爵家を継いだ博邦の娘)である。堂々たる「明治維新の勝ち組」と言えよう。なお岡山兼吉は藩閥政府を嫌い、立憲改進党の国会議員になっているので、皮肉と言えば皮肉である。