第13回

金城隠士「掛川時代の回顧」 (5) 社交生活

 

 

                           特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


山崎 千三郎

成島 柳北


(大正2年8月30日分)

 吉凶相慶吊(ちょう)し艱難相済(すく)うは、社交上に欠くべからざる礼儀であり、徳義である。静岡に士族同胞会なるもの起こりて各所に支部を設くる事となり、掛川亦其の支部所在の地となれり。池田郡長が其の部長を託せられたように記憶する。士族といっても土着の者は既に帰農、帰商しているか、さなくば郡役所、監獄署等の小役人となって僅かに生計を営んでいるという有様であったから、其の趣旨は如何にも結構だ。苟(いやしく)も同族でありながら呉越も啻(ただ)ならぬ間柄になっていては冷淡の事である。抑も同胞会の趣意は、吉凶に拘わらず互いに同情し合うようになってはいたが、凶事に重きが於いてあって慶事は余り顧みなかった。さて之を実地に施して見ると、僕等平生の公務に鞅掌(おうしょう)する者は今日は存問、明日は会葬と殆ど奔命に疲るる有様であった。又日用品を同胞には安く売るというので千代田屋という雑貨店を開き、郡役所の書記を勤めていて一寸威張ていた人が俄かに前垂掛で御用聞きに来るなど、一時は兎に角同胞会の実が見えたのも束の間、やがて肝心の本家本元から土崩瓦解して支部に波及し、遂に同胞会は自ら救済する術を知らずして僕等は掛け金の掛け損となってしまった。

 

 ◎存問⇒安否を問うこと。ここでは病人を見舞うこと。

 ◎池田郡長⇒池田忠一(1850~1934)。幕臣。江戸下谷の出身。

  明治2年、静岡学問所世話心得。同3年、五等教授。同10年、静岡県17等出仕。同15年、12等出仕学務課。同16年、岡田良一郎が佐野・城東郡長を罷免された後、同職に就任。

  明治11年に黒川が静岡県から選抜されて慶応義塾へ国内留学した時に、学務課員全員で送別の宴が開かれたが、送別の辞を起草したのは当時学務課員だった池田である。

 

 此の頃、新たに出来た吸月楼という旗亭は土地の紳士が日夕讌居する倶楽部であった。僕等山崎千三郎君兄弟と将碁を指し、又戸田淡陽、小山汪水、後藤南厓、高村★楼等の諸君と雅莚を張ったも此の楼であった。校(げい)者久吉は墨を擦り箋を展〈の〉べて其の間を周旋する例なりき。抑も吸月楼新築せられて掛川初めて東京風の料理屋を見た。床に楊誠斎の大幅が掛っていたが、美事のものなりき。楼は成島柳北翁の命名に係る。「吸杯中之月」に取るという。

 

◎吸月楼⇒大手町(城下)にあったようである。

◎旗亭⇒料亭。杜牧の詩『江南春』の「水村山郭酒旗風」は誰しも知るところであろう。

◎讌居⇒宴会のこと。

◎山崎千三郎君兄弟⇒山崎徳次郎(1840~1900)・山崎千三郎(1856~1896)の兄弟。 ◎戸田淡陽⇒次の段落で「富豪」とされているが未詳。

◎小山汪水⇒小山伝次郎。掛川の薬屋の息子。明治13年、東京大学医学部卒。 絵画に長じ、明治15年、(掛川?)中学校画学教授。

◎後藤南厓(1852~?)⇒書家。倉真学校訓導。

◎高村★楼⇒次の段落で「平生芽籌(がちゅう,算盤)を手にする」とあるので、商人だろうか?

◎楊誠斎⇒楊万里(1127~1206)。南宋の学者・詩人。しかし南宋時代の書の大幅の現物が掛かっていたとは考えられない。明治維新後に静岡学問所頭取となった向山黄村の養父、向山誠斎(1801~1856,幕臣,考証学者)と勘違いしたものだろうか。未詳。

◎成島柳北(1837~1834)⇒幕臣,奥儒者。明治7年、朝野新聞主筆・社長。

◎吸杯中之月⇒蘇東坡の詩『月夜与客飲杏花下(月夜に客と杏花の下に飲む)』の第8句「勧君且吸杯中月(君に勧む、しばらく吸え杯中の月)」のこと。言うまでもなく、李白の『月下独酌』,『山中与幽人対酌』や王維の『送元二使安西』を意識した句であろう。

 

 資産貸付所なる大俗の建物を蓋簪吟社詩会の場としたれども、其の地は極めて脱俗の仙境なりき。僕は佐藤春雲、池田疎狂、岡天蕭、曽我華水、戸田淡陽、高村★楼等の諸賢と月々此処に相会して雅懐を伸べた。春雲、疎狂、天蕭は官人にして劇務の余暇に来り、華水は緇流(しりゅう)にして方外の人を友として来たり、淡陽は富豪にして官に遊び金屋蓄嬌春又秋の余裕あって来り、★楼は平生芽籌(がちゅう)を手にするに拘らず寸暇を偸(ぬす)んで来れり。而して僕独り銭に乏しく時に富んで殆ど常連なりき。

 

◎蓋簪吟社⇒未詳。ヤフーオークションに『蓋簪吟社集』が出品されたことがあるが、寄稿者の名前から見て、同名の別団体のようである。

◎大俗の建物を⇒この書き方にも岡田良一郎に対する黒川の反感、或いは『静岡民友新聞』の悪意とが感じられる。

◎佐藤春雲、池田疎狂、岡天蕭⇒「官人」とあるが未詳。

◎曽我華水⇒「緇流」というから僧侶であろうが未詳。

 

 深浦藤太郎君は代言を業とし、僕が学校以外の朋友にして最も深く交わりたる人なりき。深浦君は令閨の名が偶々僕の妻の名と同一であった事を以て僕を信ずる迷信があった。僕は敢えて迷信という。代言人や相場師は迷信があるものと僕は思っている。試に弁護士の平生を見よ。必ず思半ばに過ぎん。深浦君は僕に代言人になれと勧めた。其の理由として月収百円以上ある事を挙げた。併しながら既に教育界に没した頭は当時公事(くじ)師となるには余り正直であった。平地に波を起こすという健訟の風は各地共に行われたものだ。

 

 素人の書き物で度々書き直しがあって恐縮です。2点訂正をお願いします。

① 補遺(2)で「岡田清直(明治7年:掛川第一小学校長)の墓は掛川市仁藤町の天然寺にある」と書きましたが、掛川市の区画整理で天然寺の墓は東遠地区聖苑に改葬されていました。

② 掛川時代の回顧(2)で、林惟純の経歴について「以前、明治17年に静岡県御用掛準判任となったのは当時の静岡県令だった関口隆吉の引きによるものではないかとしましたが、明治16年の『職員録』(県令は大迫貞清)に御用掛准判任 地誌国史編輯 林惟純とありましたので、訂正します」と書きましたが、これは調査不足で、明治15年5月時点で御用掛准判任 地誌国史編輯でした。三度訂正します。失礼しました。なお明治14年9月時点では『職員録』に林の記載はありません。