第15回

東京の横須賀藩士たち(4)

 

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 

掛中校歌 (数字譜)

沼中校歌(五線譜)


掛中職員録(大正9),左端
上段に「岩崎莞爾」教諭

沼中職員録(大正13)

中央上段に「岩崎莞爾」教諭



 

掛川市のホームページに関七郎さん(高4回卒)の「掛川銀行小史」があり、その冒頭に「資産家の山崎徳次郎・山崎千三郎・(以下7名略)や、東京在住の高級士族富永謙八郎(ママ)・岡山定恒(旧掛川・横須賀藩士族)等も加わった」との記述があります。 これを読んだ時に「永冨謙八・岡山定恒は旧横須賀藩士なのに、一体、旧掛川藩士って誰のことだろう?」と思い、大口出資者の一覧が見たいなぁと思っていたのですが、先日、戸塚喜久さん(高24回卒)から『殖産興業と報徳運動』(昭和53年,東洋経済新報社)をお教えいただき、50株以上(役員の被選挙権あり)の出資者の一覧が分りました。

東京府では永冨謙八(取締役,200株)・本多忠恕(100株)・岡山定恒(副支配人,60株)・鵜飼常親(60株)・土屋松吉(50株)・谷安規(50株)の6人です。このうち、永冨・岡山・鵜飼・土屋は横須賀藩士ですし、本多忠恕(ほんだただのり,1852~1884)は最後の横須賀藩主西尾忠篤の弟で、伊勢国神戸藩主本多忠貫の養子となった人です。谷安規は不明ですが、掛川から松尾へ移った家臣の中に谷姓はいません。東京府では49株以下の株主が5人(計15株)いますが、どうも「旧掛川藩士族も加わった」というのは関さんの掛川LOVEが筆を滑らせてしまったのではないかと思います。(違っていたらゴメンナサイ)

 

また戸塚さんからは「永富が頭取に選出された事実は確認できません」というご指摘も頂きました。確かに山崎千三郎の300株に対し、永冨の150株は半分であり、かつ『殖産興業と報徳運動』の掛川銀行出資者・役職表は「掛川銀行定規」等を典拠としていますので、永冨は法的な頭取ではなく、坪内逍遥の心の中で頭取だったのだと考え直しました。

 

ところで群馬県立史料館に「西尾忠篤様使者土屋松吉」差出の「口上手扣(こうじょうてびかえ):勝順殿を養嗣子に貰承けたき旨」と、「西尾忠篤使者土屋松吉」差出の「口上手扣:忠篤様養嗣子貰受け一件伺い」という文書があります。これは沼田藩主だった土岐家から沼田市に寄贈された土岐家文書のマイクロフィルムを群馬県立史料館が収蔵しているものです。残念ながら同館では直接出向かないと閲覧・複写ができないので、内容は読んでいませんが、西尾忠篤の養嗣子に「勝順殿」を貰い受けるのに土岐家の口利きを依頼しているのだと考えられます。

 

勝順殿」とは『人事興信録』(初版,明治36年)を見ると、最後の岡山藩主池田章政の義弟で、「西尾忠篤(嘉永3年~明治43年)」の項目に忠篤の妻の明子とともに「養嗣子」として記載されていますが、明治41年の『人事興信録』第2版,明治44年の第3版では西尾忠篤と妻の明子しか記載されていません。また大正4年の第4版では「西尾忠方(明治17年~昭和33年)」が「(明治)42年12月、忠篤養子となり、同43年11月、家督を相続し襲爵仰付けらる」として、「養母明子,妻美和子,男忠義」とともに記載されています。

 

勝順は明治40年に離縁されたとの情報もありますが、確認できていません。いずれにせよ縁戚関係(*)にあった沼田藩主土岐家横須賀藩主西尾家とは、明治以降も親しかったことが伺えます。(* 忠篤の養父忠受の正室は沼田藩主の土岐家の出身です)

 

ここで余談。群馬県立沼田高校の校歌と掛川西高の校歌はそっくりだと言われます(YouTubeで確認できます)。私は従来、掛川西高の校歌の制定は明治37,8年で、沼田高校は大正12年の制定、かつ大正12,3年の旧制沼田中学校の教職員に旧制掛川中学校の卒業生はいないので、偶然の一致だと思っていました。

 

ところが最近、沼田高校のホームページで下記の記述を見つけました。

 --引用開始--

 大正9年10月30日に校歌を一般生徒から募集(川路幹校長)することが発表された。上毛新聞(大正9年10月31日号)は次のように報じている。

「“校歌の募集を発表した沼中” 利根郡沼田町県立沼田中学校にては、奉読式後、生徒自ら選びたる修養の徳目を発表し、これを実践躬行すべき旨の宣誓式を行い、且つその徳目を標準として校歌を作定すべき旨を発表したり、右徳目は「進取勤勉」「和親協同」「質実剛健」の三項目にして何れも勅語の趣旨に協(そ)ふべきものなり、校歌は生徒の創作を募集する筈、・・・略・・・」

 大正12年、梅田三郎校長の時に歌詞を生徒から募集し、何点かの応募作の中から、当時、国漢の教師であった岩崎莞爾先生が選択し、補筆して生まれた師弟の合作である。現在歌われている歌詞は戦後、一部変更されたものであり、制定年月日は定かではない。作曲者は不詳である。--引用終了--

 

ここに出てくる「岩崎莞爾先生」とは、大正7年10月~同10年3月の間に掛川中学校で、同11年9月~同13年10月の間に沼田中学校で、国語・漢文を教えていた岩崎莞爾教諭のことと考えて間違いないでしょう。

 

また沼田高校歌の1番は「北毛(ほくもう)の要(よう)鞍城址(あんじょうし)、その高陵(こうりょう) にわが校は、基(もとい)固めて桔梗(けっこう)の、薫り行くこそめでたけれ♪」となっていますが、この桔梗(けっこう)とは土岐家の家紋桔梗であるためです。

一昨年の講演でも申し上げましたが、掛川中学・掛川西高の校章は掛川特産の葛葉3枚の間に掛川藩主太田家の家紋である桔梗の蕾を配しています。ご縁を感じさせる話ではありませんか。

 

沼高七十年史』(昭和43年)は校歌について、「歌詞そのものの良否や、曲が他からの借譜であろうが、大正12年から今日まで、入学式や卒業式など数多くの行事に、また対抗試合の度に、生徒の哀歓をこめて歌われてきた校歌であり、みずから湧き出たもの、すでに本校の血肉となったものと見てさしつかえないと思う。まさに立派な校歌である。」としています。

まさにその通りでしょう。しかも今や100年近く歌い継がれている校歌なのです。 両校の校歌の類似は、現代の「オリジナル対コピー」といった価値観で捉えるべきものではなく、掛川の地で咲いた桔梗を百年前に沼田へ株分けした教師がいたということではないでしょうか。

 

なお掛川西高校歌の作詞者は、ご遺族が原稿をお持ちの藤井金吾教諭に間違いありませんが、作曲者が『百年史』の時点では塙福寿教諭とされていたのに(**)、現在では不詳とされています。

しかし明治39年の『校友会誌』に現在と同じメロディーが数字譜で記載されており、塙教諭は掛川中学に創設時~大正5年まで在職していて、かつリアルタイムで在学していた杉本良さん(中2回,明治39年卒)が『掛中開校顧望八十年』で「(塙福寿・藤井金吾)両先生は掛中校歌の作曲・作詞で長く記憶せられよう」と書いているので、作曲者は塙教諭で間違いないと思います。

(** 但し巻頭のグラビア頁では不詳とされており、矛盾した表現となっている) なぜ現在は「作曲者不詳」とされているのか、その間の事情をご存知の方がいらっしゃいましたら、三谷あて(mmitani@gakushukai.jp)ご教示くださいますよう、お願い申し上げます。

 

また校歌第2番の最終行は、1935年(中31回卒)~1961年(高13回)と1986年(高38回)~少なくとも2007年(高59回)の間、「崩(くず)折れず」ではなく「屈(くつ)折れず」と歌っていたことを第31代校長八木義男先生が掛川西高のホームページで明らかにしていらっしゃいます。日付が平成20年(2008年)3月ですので、離任の際にお書きになったものと思われます。

一体なぜこのような歌詞変更が行われたのか、また生徒たちにはどのような説明がなされたのか、高38回前後の卒業生で覚えている方がいらっしゃいましたら、三谷あてご教示くださいますよう、併せお願い申し上げます。

 

 (本稿は沼田高校へのリスペクトを欠いた記述になってはいけないため、沼田高校在京同窓会橋場会長にお目通しいただきました)