第16回
掛川時代の回顧(補注1)黒川正と外山正一
特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)
山田 大夢
川村 修就
江原縫子・外山房子・中野長子
掛川市のホームページの「松ヶ岡プロジェクト」のサイトに山崎覚次郎の年表が記載されており、明治15年に「東京大学予備門入学のため上京。丘浅次郎と共に坪内逍遙の下に寄宿」とある。
何気ない記述だが、考えてみると不思議な組み合わせである。というのも、現在では山崎覚次郎が後に東京帝国大学教授となる人物であることは分かっているが、明治15年の時点では田舎の私塾(冀北学舎)を卒業した一書生に過ぎない。一方、坪内逍遥は明治10年設立の東京大学を同16年に卒業した、現在の東大生とは比較にもならない超エリートだからである。
(但し東京大学が我が国唯一のエリート養成校となるのは明治19年に帝国大学となってからで、それ以前には工部大学校,司法省法学校,東京山林学校,駒場農学校,札幌農学校などの官立高等教育機関があった)
一体、覚次郎と逍遥とはどんな接点があったのかという疑問を解いて行ったら、横須賀藩家老の永冨謙八に行き当たり、それをまとめたものが「東京の横須賀藩士たち(1)~(3)」になりました。
ところで金城隠士「掛川時代の回顧」は「文科大学の専科に入りて、英文学を専攻しようと思立ち、東京大学教授外山正一君を、牛込神楽坂の私邸に訪い、志望を述ぶると、篤と僕の学歴を質して、畧々僕の要求を容れて呉れた」という一文で始まるが、これも不思議な組み合わせである。
この時点(明治13年)で慶応義塾を卒業したばかりの金城隠士(黒川正)が、なぜ東京大学の初の日本人教授である外山正一に個人的な進路の相談ができたのだろう。それは現代で言えば、医学部を卒業したばかりの青年が京都大学の山中伸弥教授に個人的な進路の相談をするようなものだ。この2人の接点はどこにあったのだろう。
⇒なお「掛川時代の回顧」を掲載した新聞が発行された大正2年の時点では、外山は東大総長・文部大臣を歴任して既に逝去していますが、黒川の卒業した慶応義塾で「先生」と呼ぶのは福沢諭吉だけであり、他者はどんな社会的地位があろうと「君」付けであるということを、東京冀北会の鈴木正具会長(高19回卒)よりご教示いただきました。
この疑問(外山と黒川の接点)が、同窓生の方の、江原素六氏を敬愛されていたというご祖父様の随筆をみせていただいたことにより氷解しました。
しかし外山と黒川の接点の話の前に、遠回りになりますが、黒川が「掛川時代の回顧」(2)で岡田良一郎と並ぶ静岡県東西の両大関と呼ぶ江原素六と黒川との関係について述べておきます。
江原家の初代は「黒鍬」という最下層の幕臣として召し抱えられていますが、その後、定普請同心となり、文化2年(1805年)5月14日、6代目の源五郎の時に「被仰付永々御目見以上」、つまり旗本になっています(司馬遼太郎の『胡蝶の夢』では素六のことを「三百年来の黒鍬者」としていますが、誤りです)。ただし7代目(素六の祖父),8代目(素六の父)とも無役の小普請支配だったため、家計は貧困を極めており、江原家は房楊枝(現在の歯ブラシ)作りを内職としていました。素六も寺子屋から帰ると房楊枝の光沢付けを手伝い、百本磨くと4文を貰い、筆や墨の購入費用、寺子屋の謝礼にあてたとのことです。
素六は幼い頃から聡明でしたが、父の源吾は「学問など無用」という考えに凝り固まった人だったと伝えられています。しかし周囲が源吾を説得したり、素六を支援したりして、苦学の末に頭角を表し、幕末には撤兵隊の指揮官(後の大佐クラス)を務めるまでに出世を遂げました。
明治維新後は明治2年に静岡藩少参事として沼津兵学校を設立・統轄し、沼津兵学校が新政府に接収された後、沼津兵学校附属小学校を改組した集成舎の校長に、同8年には静岡師範学校の初代校長になります。
そして黒川の父、山田大夢(関宿藩家老の木村正則が明治以降に改称した氏名)は沼津兵学校附属小学校の教員であり、江原と同様に集成舎校長・静岡師範学校長になっています。
黒川自身も沼津兵学校附属小学校の生徒であり、明治8年には江原の推挙により若干19歳で静岡師範学校教員になっています。またその際、「礼服着用」との県庁の指示に困っていた黒川に、江原が洋行中にパリで誂えた礼服を貸与しており、江原がいかに黒川に目を掛けていたかが分かります。
おそらく、山田大夢が彰義隊と共に戦って敗走したため一家離散したものの、江原は学業優秀な黒川に若き日の自分を重ね合わせたという面もあったのでしょう。
その後、明治11年に静岡県は3名を東京へ留学させることになり、黒川もその1人として平賀敏(この人は「補遺(3)」の波多野承五郎の項にも出てきましたが、次回も出てくるので覚えておいてください)・望月宗一と一緒に三叉学舎へ入学し、三叉学舎が閉校となったため慶応義塾に転じ、明治13年4月に卒業して今後の進路を外山正一に相談していたところ、掛川中学校への辞令が出たという訣です。
ところで江原について沼津市明治史料館(江原素六記念館)に問い合わせるなどして、以下のことが分かりました。
①初代新潟奉行の川村修就(かわむらながたか,1795~1878年)には、順次郎・帰元という子があり、其々に縫子・房子という娘があった。
②縫子は江原素六に、房子は外山正一に嫁いだ。
③つまり江原縫子(素六の妻)と外山房子(正一の妻)は従姉妹になる。
江戸東京博物館には大正14年に牛込の外山邸で撮影した「江原縫子・外山房子・中野長子」の写真があり、この従姉妹たちが老後も仲良くしていたことが伺えます(中野長子とは、房子の姉妹で中野光亨に嫁いだ「てふ」のことと思われます)。
黒川自身の回想がないので推測になりますが、江原は上京する黒川に「何かあったら外山正一に相談するといい」と言っていたのではないでしょうか。
なお掛川市横須賀に愛宕下美術館を設立した三枝基(さいぐさもとい)の母も江原縫子・外山房子の従姉妹であり、基は川村修就の曾孫になります。