第17回
掛川時代の回顧(補注2)林惟純と江原素六
特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)
林 惟純
女子教草 (奥付)
女子教草 (凡例).
前回の補注1で取り上げた江原素六と、冀北学舎・掛中・掛西高関係者で最も関係が深いのは、前期掛川中学初代教頭(旧制中学に教頭という職位はありませんが、便宜上、筆頭教諭を教頭としておきます)の林惟純と思われます。
①林と江原とは江戸の麹渓塾で、ともに松平慎斎に就いて学んでいる。(注1)
②林は江戸開城の直前に、幕府陸軍の撤兵隊が暴発しないよう、熊本藩(新政府軍)の益田参蔵と一緒に、隊長の江原へ鎮撫を依頼している。(注2)
③林は晩年まで江原と親しく、江原は林の23回忌(1918年)まで参加している。(注3)
<江原は1922年に逝去しているので、27回忌には出られなかったのでしょう>
(注1)『江原素六先生伝』(1923年)に、素六の言葉として「余(江原素六)は蟻川塾<※>に在つて、屢々麹町麹渓塾に出入せり、其塾長に会藩人(会津藩士)にして林三郎(林惟純)といふ極めて温厚篤實なる君子人あり、此知人によりて京阪滞在の会藩有志に紹介せられたるを以て、京都及び諸藩の情報を得るに少なからざる便利を得たり。」とあります。
<※>松代藩士で佐久間象山の門下であった蟻川賢之助(1832~1891)が開いていた私塾。
(注2)江原の『急がば廻れ』(1925年)に「暫らく話をして居る中に、会津藩の林三郎が、肥後藩の益田参蔵を伴れて来て、私の穢ない中(うち=家屋)に這入りました。林三郎の云ふには愈よ時日も切迫して官軍が箱根を越した時に、幕府の処置が悪いと悔いても及ばぬ。附いては一番官軍に於で懸念するのは、お前方に属して居る撤兵隊である。その一挙一動は由々敷大事になると云ふので幾分か官軍も、躊躇して居る。幸ひ聞けばお前は、その隊に居る。肥後の参謀長益田君は全権を帯びて来て云はれるに、お前に一切隊の方を任せるから、軽挙妄動をしないやうにして呉れと斯う云ふことである。何うかお前も責任を以て引受けて呉れと云ふ。」とあります。
(注3)平成11年~12年に前田匡一郎さん(高3回卒)が産経新聞へ連載した記事によります。
<同記事中に見える佐藤鎌三郎(林の門弟,おそらく一橋藩士)著『林惟純先生略歴』による情報かもしれませんが、同書は筆者未見です。前田弘子さん(匡一郎さんの奥様)にお尋ねしましたが、匡一郎さんの蔵書は全て人にあげてしまったとのことです>
また黒川と並ぶ「静岡師範の3秀才」平賀敏は、静岡藩静岡学問所の漢学の最高の先生として、向山黄村(頭取)・林惟純・中村正直(一等教授,中村敬宇,冀北学舎初代英語教師の大江孝之が大江敬香と号したのは、敬宇を尊敬していたためです)を挙げています。(注4)
(注4) 『平賀敏君伝』(1931年)に、平賀の言葉として「教師には中々堂々たる其時の学者が居ました。即ち漢学には向山黄村・林維純(ママ)・中村正直(敬宇)、洋学科には中村正直・西周・長田銈太郎・外山正一等を始とし、其下に沢山の助教師が居り、毎日午前七時から正午までが教授時間でありました。」とあります。
また慶応4年には、会津藩の嘆願書を西郷隆盛に渡すべく、品川沖合いの舟上で密談する手筈まで整えていたのに、彰義隊の決起で仲介者の益満休之助(鹿児島藩士)が負傷したため流れてしまいました。もしもこの密談が成功していたならば、その後の会津藩の運命も変わっていたかもしれませんね。(注5)
(注5)幕臣で徳川慶喜の家扶となった瀧村鶴雄の『林氏事蹟余話』(明治29年)に拠ります→この件については稿を改めて述べます。
今となっては掛川西高卒業生の99.9%が林惟純なんて知らないと思いますが(私も3年前まで全く知りませんでした)、大変な人物だったようです。
ところで黒川正は「掛川時代の回顧(2)」で林の事を「大に岡田(良一郎)校長と、肝胆相照しそうであったが蟷螂の斧を振り廻した」ため、約1年で交代させられたと言わんばかりの書き方をしていますが、本当でしょうか。林の生涯を見ていくと、林が「蟷螂」とはとても思えないのですが。
また「掛川時代の回顧」に先立つ「静岡時代の回顧(6)」には「此の比、林惟純といふ資格の判然せぬ先生がゐた。此の人事務は得意でなかったが、立派な漢学者で、頻りに英語を研究してゐた。其の抱負は実に熾なもので。更に十年英語を学び又更に十年数学を学ぶと言て、頗る中村敬宇先生を気取つてゐたが、語学のほうはゼロであつた。併し僕は林君の精力絶倫なるに、深く敬服した」とありますが、本当でしょうか。
というのも、林は明治12年にリンコロン・フェルプスの『女子教草』(アルミラ・ハート・リンカーン・フェルプスの『Female Student』と思われます)を翻訳・出版しているからです。
ゴースト・トランスレイターがいたという可能性も考えられますが、前出の『林氏事跡余談』に「女訓に関する一小冊子を訳述せられたり。書名はいま記憶せず」とありますから、それはないでしょう。同書には、後年のことですが「其後、正則尋常中学校にて漢学を教授するにあたり、英文に比較して漢文を説明せし事あり。漢学の老先生には未曾有の事とて、生徒の一驚を喫したり」といった愉快な記述もあります。
さて、この2つの記述(「蟷螂の斧」「語学のほうはゼロ」)は、黒川が洒脱過ぎて、筆が滑っているのではないかという気がします。「語学のほうはゼロであつた」というのは、前記の通り疑問ですし、「資格が判然せぬ先生」と言うならば、黒川にしても「此の比」は同じなのです。黒川も大学や師範学校を卒業した訣ではなく、文部省が明治18年に導入した中等学校教員学力検定試験によって教員資格を取得したのですから。