第18回

たまにはミ~ハ~

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


高7回卒3年7組

高11回卒3年6組



高3回卒3年E組

高7回卒の書道部員

昭和29年度の書道部



昭和24年4月に初めて23名の女子生徒を迎えた掛川西高ですが、翌25年に3年E組へ1名の女子生徒が転入し、翌26年3月に初の女子卒業生となりました。高3回卒の大村(角替)若代さんです。国学院大学の博士課程を修了し、財団法人言語文化研究所にて日本語教育の研究をしていらっしゃいました。「言語学者金田一京助の弟子になりたい。そのための学力を付けたい」という意志を持って掛川東高から掛川西高に転入した、この年度で唯一の女子生徒です。凄いなぁ!

 

今の掛川西高は質・量ともに女子生徒の方が優勢だと聞きますが、そのパイオニアとして敬意を表さずにはいられません。

 

 

 

ちなみに高4回卒の女子卒業生は写真を見る限り、19名です(A組3名,B組7名,C組6名,D組0名,E組3名,F組0名)。(入学)23名-(卒業)19名=(差)4名はどうなさったのか不明ですが、『掛中掛西高百年史』では高2回卒の小関栄さん・堀内省吾さんの談話として「1年生250名中の僅か18名(※)の女子であるが、学内が一挙に明るくなり、話題も殆ど『女の子』に集中していた。(後略)」とあります。また、昭和25年5月1日現在で2年次に在籍する女子生徒は20名です。もしかすると、入学したものの止む無く退学された方々がいるのかもしれませんね。

 

(※原注:実際は23名。筆者注:457頁の原注に対して、487頁では24名とある。また新入生の総数も457頁では285名、487頁では280名と混乱が見られる)

 

 

 

続く高5回卒では女子卒業生は37名(1組4名,2組5名,3組5名,4組5名,5組5名,6組4名,7組4名,8組5名)と倍増しています。〔6クラスが8クラスになっていますが、定員は1学年250人で変わりません〕

 

 

 

高4~6回卒の女子卒業生103名は全てセーラー服姿ですが、高7回卒の女子卒業生47人中に現在と同じブレザー姿の生徒が8名おり、高8回卒では44人中の34人と多数派になり、高9回卒では殆どブレザー姿となっています。セーラー服姿の生徒は高12回卒までおり、昔は時の流れがゆったりしていて良かったなぁという気がします。

 

 

 

ところで紺地のセーラー服・スカーフ・プリーツスカート(『百年史』は「ジャバラ」としています!)を当初の制服と定めたのは高4回卒の方々である旨が『百年史』に書かれていますが、現在に続くブレザーのデザイナーについては記載がありません。

 

私は掛西120年の歴史で忘れてならないのは、校歌の作詞者藤井金吾先生,同作曲者塙福寿先生,校旗(校章)の作成者丹羽五十吉先生と、ブレザーのデザイナーの先生だと思っているので本当に残念でしたが、最近、大角幸枝さん(高16回卒)から「冬服も夏服も母(大角幸子先生)がデザインしたものです。母から直接聞きました」とご教示いただきました。

 

 

 

大角幸子先生は昭和26年4月に国語(古文)の教師として掛川西高に赴任され、昭和27年4月入学の女子生徒(高7回卒)からブレザー姿が現れることは先に述べた通りです。ただし高7回卒生徒の1年次からブレザーが導入されたのではなく、3年次の昭和29年に全学年へ同時に導入されたようです。(同年の書道部の部活風景から、そのことが伺えます⇒ここに写っている部員のうち3年生は右手前のおかっぱ頭の女子生徒ですから、ブレザー姿の女子生徒は1年生か2年生です)

 

大角先生は昭和33年3月に離任されますが、昭和33年4月入学の女子生徒(高13回卒)からは卒業アルバムの写真で見る限り、ブレザー一色となっています。

 

 

 

当時、掛川西高新聞委員長だった八木訓さん(高7回卒)のご教示によると、「昭和29年の『掛川西高新聞』に相当大きなスペースを取って、新制服見本,実施要領を掲載した」とのことでしたが、残念ながら掛川西高では昭和49年以降の『掛川西高新聞』しか確認できていません。もしも保存していらっしゃる会員がいらっしゃいましたら、お教えくださるようお願い申し上げます。

 

 

 

また『掛川西高新聞』の題字枠内にあしらわれている平和観音(明治40年に「戦勝観音」として天守台に建立され、第二次大戦後に「平和観音」と改称、平成元年に富士見台霊園に遷座され現在に至る)が「これからは男女共学だから」とスカート姿に変えられたのは、高5回卒の新聞委員のイタズラだそうです(これも八木さんのご教示によります)。

 

 

 

なお早くも(!)高4回卒に同級生同士でご結婚されている方が1組いらっしゃいます。小・中・高と同級生のようです。その後も、高5回卒2組,高6回卒2組,高7回卒2組と、順調に(?)推移しています。

 

初代教頭山内佐太郎先生の「学生訓十則」の第九には「女性に対するの愛、之れを防遏するは克己力を試験する最好の機会にあらずや、学生時代に此克己力を欠くものは到底人生の戦場に立つの資格なき者と知れ」とあったのですが、時代は変わったんですね。

 

私の高26回卒では7組いらっしゃいます。多いのか少ないのかは分かりません。

 

 

 

ところで当校と同根の校歌を持つ沼田高校は男子校です。というか男女別学の全日制公立高校は全国に9県ありますが、群馬県は平成29年9月5日付け「朝日新聞」によれば、男女別学率が23.5%と全国最高なのだそうです。次は栃木県の18.6%、埼玉県の8.5%と続き、北関東の旧制中学校・高等女学校以来の伝統校には男女別学が多いようです。

 

 

 

また初代校長柳生寧成先生の前任校である水戸二高(茨城県立水戸高等女学校)は男女共学が建前なのですが、ホームページを見ると実際には女子生徒しかいないようです。同じ茨城県の日立二高(茨城県立日立高等女学校)も同じようです。隠れ別学という公立高校はまだまだ有るのかも知れませんね。

 

 

 

柳生寧成と言えば「掛川中学の後、どうなっちゃったのかなぁ」と思っていたのですが、杉本良さん(中2回卒)の「掛中開校顧望八十年」によると、柳生昌成さん(*)から聞いた話として、「北海道帯広・満州大連・大阪相愛女学校(現存)等を経て、共立女子職業学校(共立女子大学の前身)に嘱託勤務し、昭和8年5月4日に岡山県児島郡八浜町(現在の岡山県玉野市八浜町)の三女三宅夫人宅で永眠。墓は寧昌(父)と同じ谷中霊園にある(**)」とのことです。

 

 

 

(*)柳生寧成の子,掛中から丸亀中に転校して、明治35年に卒業した後、陸軍士官学校に入学、近衛師団に配属された。昭和55年(1980年)当時は産業能率短大にご勤務でした。

 

 

 

**寧成,寧昌(父)の墓所は谷中霊園、寧遠(祖父)の墓所は芝白金の正源寺(浄土宗)ですが、柳生家の菩提寺は掛川市肴町の蓮福寺(浄土真宗大谷派)で、一昨年、遷化された第16代住職の馨哲夫さん(高5回卒,第16代掛川西高PTA会長)は筆者の中学時代の恩師でもあるのですが、3年前まで冀北学舎・掛中・掛西高の歴史には全く興味がなかったため、お話を伺えなかったのは残念です。

 

 

 

柳生寧成の帯広での勤務は帯広大谷女学校の可能性がありますが、帯広中学・十勝姉妹職業学校(帯広高等女学校の前身)と同じ大正時代の設立ですから、年代的に無理があり、大連時代と同様、どこで何をしていらっしゃったかは不明です。ただし、杉本さんの語る柳生校長の経歴は誤りもあり(東京師範学校卒業後の初の赴任校を群馬師範学校、2番目を長崎県立福江中学校としていますが、順序が逆と思われます)、いまのところ実際の経歴は不明です。

 

また大阪相愛女学校は明治21年に設立された浄土真宗本願寺派の学校ですが、どういうご縁で柳生寧成が勤務していたかは分かりません