第2回
東京の横須賀藩士たち(2)
特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)
東京の横須賀藩士の要と見られる永冨謙八であるが、明治33年(1900年)に享年64で死去しているから、天保8年(1837年)の生まれであろうか。明治維新は30歳、廃藩置県は34歳で迎え、掛川銀行設立時は43歳である。明治維新後の永冨謙八の経歴は殆ど不明であるが、岡山兼吉の23回忌の『追懐録』に永冨が「①維新前、江戸詰めを命ぜられたこと,②維新後は、藩の財政整理に注力したこと,③渋沢栄一に薦められて一時、大蔵省に出仕したこと,④間もなく大蔵省を辞め、「精義社」(未詳)を設立したこと,⑤明治14年(ママ)、掛川銀行に入り、東京支店に勤務したこと」が記されている。これだけでは永冨が明治初期に山崎千三郎と同等の立場に立てるほどの財力を築いた源泉が判らないが、岡山定恒同様、岡山定基から理財センスを学んだものだろう。
なお日本近代文学の濫觴である坪内逍遥の『当世書生気質』に出てくる銀行家の三好(43,4歳の設定)と銀行員の園田(35,6歳の設定)は年齢からみて永冨謙八・岡山定恒がモデルだろう。弁護士の守山は逍遥自身が「梧堂(岡山兼吉)半峰(高田早苗)両兄をこきまぜ」て作った人物と回顧している。まさに横須賀藩士のオンパレードと言えよう。
横須賀藩士の理財と言うよりは経理センスと言えば、逸することができないのが浅田正文である。 浅田は安政元年(1854年)に江戸の藩邸に生まれたが、8歳の時に父を失ったため、横須賀に移住して、家督を継いだ。横須賀藩校では同年の岡山兼吉と首席を争う優秀さで、14歳の時に横須賀藩警衛士として京都に上り、15歳の時には藩の計算吏に挙げられた。 明治維新後は永冨謙八(※)の斡旋で三瀦福岡両県に出仕したという説(明治36年『信用公録』)と新政府の会計局に奉職したという説(昭和11年『財界物故傑物伝』)とがあるが、不明。 (※『信用公録』には「旧藩先輩富永某氏」とあり、花房藩御用廻船問屋である弥兵衛が作成した『花房藩役人一覧』に「御作事奉行 富永辰次郎」が見えるが、ここは永冨謙八のことと考えたい)
また慶応義塾を卒業したという説もあるが、『慶応義塾入門帳』,『慶応義塾総覧』では入学・卒業が確認できない。
明治7年、浅田は岩崎弥太郎と知り合い、三菱蒸気船会社に入社した。同社は征台の役の軍事輸送で半官半民の日本国郵便蒸気船会社を駆逐し(同社は明治8年に解散。三菱蒸気船会社に吸収され、郵便汽船三菱会社となる)、その後、西南戦争の軍事輸送を経て、我が国の海運業に独占的な地位を占めるに至った。
あまりに強大になった三菱に対し、明治15年に三井を中心にアンチ三菱連合の共同運輸会社が設立されたが、2年間の消耗戦を経て明治18年に両社は合併し、日本郵船会社が誕生した。 (掛川藩唯一の長崎海軍伝習生甲賀郡之丞の子、信郎が共同運輸に勤務していて、福沢諭吉が蒸気船の改良の歴史を問い合わせた書簡を思い起こして頂きたい。昨年の講演資料-文書21) 前置きが長くなったが、浅田は三菱で一貫して経理畑を歩み、会計課長荘田平五郎(※)の下で会計課支配人となり、日本郵船の設立時にも会計課支配人として整理事務を担当し、明治22年には同社理事会計課長、同26年には専務取締役となり、同44年まで同社取締役に在任した。 (※)荘田は明治2~4年の間、慶応義塾から松尾の教養館に出講していた英学教師でもあった。
浅田が設立に関与した会社は、日本郵船のほか明治製糖・帝国商業銀行・東京建物・東洋移民・神戸電気鉄道・九州炭礦・加富太ビール等があるが、帝国商業銀行(現在のみずほ銀行の前身の一つ)は明治41年に不良債権問題が発覚して、取締役が全員辞任している。
浅田は明治45年に死去した。享年59。晩年は帝国商業銀行の失敗があったが、我が国海運業の功労者であり、また複式簿記を我が国に定着させたのは荘田平五郎と浅田である。
また我が国落語界の中興の祖である三遊亭圓朝の「七福神詣」には渋沢栄一(大黒)・馬越恭平(蛭子)・安田善次郎(寿老人)・益田孝(福禄寿)・岩崎弥之助(毘沙門天)・大倉喜八郎(布袋)ら錚々たる会社経営者たちと並んで、会計支配人である浅田正文(弁財天)が入っているが、これはサゲ「僕(浅田)は池之端にいるからじゃ」のためだろう。(サゲの解説は無粋だからしません)
渋沢栄一(1840~1931) 多くの企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」と言われる。
馬越恭平(1844~1933) 大日本麦酒社長。「日本のビール王」と呼ばれた。
安田善次郎(1838~1921) 安田財閥の創業者。
益田孝(1848~1938) 三井財閥の大番頭。
岩崎弥之助(1851~1908) 三菱財閥の創業者 岩崎弥太郎の弟で、同財閥2代目総帥。
大倉喜八郎(1837~1928) 大倉財閥の創業者。
ところで(1)で書いたように、岡山定基の三男喜代次はロンドンで苦学しつつ航海術を修め、明治10年(1877年)の帰国後は郵便汽船三菱会社に「船長運転手」として入社したが、これは浅田の口利きによるものではないだろうか。
また永冨謙八の嫡子雄吉は冀北学舎卒業後、坪内逍遥の指導を受けて高等商業(一橋大学の前身)に入学し、ベルギー国アントワープ商業大学に学んだ後、高等商業で教鞭を取っていたが、日清戦争後の海運界の発展に誘われ、「某君を介して」日本郵船会社に入り、副社長で退社した(前出『追懐録』による)。もしや、この「某君」も浅田ではないだろうか。
掛川銀行のカウンターパートが掛川藩士(松尾藩士)ではなく、横須賀藩士(花房藩士)だったのは何故かと言えば、掛川藩士には横須賀藩士の永冨謙八・岡山定恒・浅井正文のように実業界で成功した人物が乏しいからだろう(私が知らないだけかもしれない)。
では何故、横須賀藩には永冨たちのような人物が輩出したのか。今のところ全く見当も付かないが、廻船業のノウハウと関係があるのではないかと推測している(全くの見当外れかもしれない)。