第3回

東京の横須賀藩士たち(3)

               特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回)

 

                                                           (油彩:明治三美人の一人園田銈 郡山市立美術館蔵

 

   21世紀に入ってWeb上の情報量がそれ以前とは比較にならないほど多くなったので、永冨謙八(以下、永冨)のような「無名の人」でも、それなりに検索することができる。

                      

 例えば早稲田大学図書館には「旧花房藩財政窮乏に付き大蔵省への願書並指令/木更津県宛/旧花房藩永冨謙八」という明治6年の写本(※)があるが、前回の「②維新後は、藩の財政整理に注力した」という記事を裏書するものであろう。なおこの写本中に「鵜飼東一」と連署している文書がいくつかあるが、鵜飼常親との関係は不明である。

       (※)明治6年10月~明治13年2月の間に大蔵卿であった大隈重信が大正11年1月に死去した後、

          養嗣子である大隈信常が大正11年4月に同大学へ寄贈したものであろう。

 

 また『三田商学研究』2000年10月号に、「日本橋浜町1丁目街並み商業史覚書」という論文が掲載されており、明治6年から明治9年の間に永冨が日本橋浜町1丁目22番地と25番地を所有したことが分かる。なお掛川市のホームページに掲載されている「掛川銀行小史」では明治13年時点での永冨の居宅は浜町1丁目24番地であるが、明治9年時点では大沢南谷(画家らしい)が所有かつ居住している(明治45年の地籍台帳では浜町1丁目27番地を大沢南谷が、同28番地を永冨の嫡男の雄吉が所有かつ居住している。地番変更や分筆があったのかもしれない)。  

 

 明治13年は掛川銀行設立の年である。(1)で書いたように、坪内逍遥は永冨を「掛川銀行頭取」としているが、逍遥の友人であり、逍遥と同じく永冨を「一生の恩人」とする岡山兼吉は掛川銀行頭取の山崎千三郎とも面識があるので、掛川銀行は山崎・永冨の双頭体制だったのだと思う。

 

  明治15年7月に渋沢栄一の最初の妻、千代が亡くなり、永冨は菓子1折と1円50銭を手向けた(『渋沢栄一伝記資料』による)が、前回の「③渋沢栄一に薦められて一時、大蔵省に出仕した」という記事を裏書するものであろう。

 また同年11月に永冨は山崎千三郎と相談し、掛川で初めて開催される政談演説会に岡山兼吉を招聘している。演説会は連雀町姫喜座(未詳)で開催され、講演者は岡山のほかに山田一郎波多野承五郎渡邊治であった。

 当時の岡山・山田は明治15年7月に東京大学を卒業して弁護士を開業した直後、波多野は明治7年12月,渡邊は明治15年7月に慶応義塾を卒業して、時事新報(明治15年3月創刊)の記者になった直後である。なお山田は明治20年代の後半に零落して掛川に滞在していたことがある。

 また渡邊の生年を1856年とする資料もあるが、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員選挙に立候補するにあたり、年齢要件(満30歳以上)を満たすために戸籍吏を買収して、戸籍を改竄したものと言われる(慶応義塾大学出版局『時事新報史』第25回による)。

 

 山田一郎(1860~1905) 広島出身。 「天下之記者」と呼ばれたフリージャーナリスト。

 波多野承五郎(1858~1929) 掛川出身。朝野新聞社長。衆議院議員。

 渡邊治(1864~1893) 水戸出身。大阪毎日新聞社長。衆議院議員。

 

 明治16年は逍遥の自筆年譜中に「1月、本郷元町に借宅して年少学生7,8名を預りて其通学の監督をなすと同時に間暇に英語を教ふ。掛川銀行頭取永冨謙八其他の依嘱によりてなり」とある。この年少学生の中に山崎覚次郎・丘浅次郎・永冨雄吉がいたことは言うまでもない。

 

 明治18年10月には岡山兼吉が金原明善の仲介により永冨の媒酌で岡村義昌の娘トシ子と結婚している。岡村は元浜松藩士で維新後は大蔵省監督権頭・兵庫県大参事・三潴県権令等を歴任、嫡男の岡村輝彦は大審院判事・弁護士である。なお静岡銀行のルーツの一つである西遠銀行を設立した平野又十郎は岡村の住み込み書生をしていたことがある(磐田市立図書館HPによる)。

 

 明治19年10月には坪内逍遥が永冨の媒酌で鵜飼常親の養女センと結婚している。同月23日の披露宴には山崎覚次郎・丘浅次郎・永冨雄吉らが出席したことが逍遥の日記で分かる。

 

 明治22年1月に永冨は掛川銀行総会出席のため掛川に赴き、岡山兼吉が同行している。

 

 明治26年2月に永冨は読売新聞に近火御見舞御礼の広告を出しているが、住所は日本橋浜町1丁目24番地である。

 

 明治29年11月に永冨は掛川銀行取締役を退任し、明治33年10月24日に逝去した。享年64。長男の雄吉が読売新聞と朝日新聞とに死亡広告を出している。

 

 大正11年4月12日に永冨の妻、千代が逝去した。雄吉が東京朝日新聞に広告を出している。

 昭和4年1月20日に雄吉が逝去した。雄吉の長男、謙一が東京朝日新聞に広告を出している。

 昭和12年4月17日に雄吉の妻、道子(衆議院議員 野澤武之助の妹)が逝去した。享年64。

 

 平成10年10月13日に謙一の妻、愛子(伊藤博文の孫)が逝去した。享年92。読売新聞の死亡記事を見ると告別式は藤沢カトリック教会で執り行われるとなっている。

  謙一には一望・邦雄の2子があり、邦雄氏は第一生命の元専務取締役であったため、同社を経由してお話が伺えないかと思っていたのですが、3年前に逝去されていました。残念です。

 

 前回の訂正です。前回、浅田正文の経歴に関して“『信用公録』には「旧藩先輩富永某氏」とあり、花房藩御用廻船問屋である弥兵衛が作成した『花房藩役人一覧』に「御作事奉行 富永辰次郎」が見えるが、ここは永冨謙八のことと考えたい”と書きましたが、「富永某」は富永辰次郎でした。

 

 『議会制度百年史』1990年,大蔵省印刷局)によれば、富永發叔(辰次郎,1833~1919年)は横須賀藩目付役・普請奉行等を経て、維新後は民部省・工部省・三潴県・長崎県などの官吏を歴任し、明治35年に衆議院議員に当選しています。そして、『東海三州の人物』(1914年,静岡民友新聞社)によれば、富永發叔が三潴県典事の時に浅田を同県の税務吏にしたとのことです。

 なお富永の娘は明治三美人の一人と言われる園田銈です。

 

 ***** 本稿作成に当たっては下記の方々から多大な学恩を頂戴しました。篤くお礼申し上げます。*****

 

 岡本久生 先生(大須賀町郷土研究会代表,掛川西第9回卒

 桑原功一 先生(渋沢栄一記念財団 渋沢史料館)

 関七郎 先生(掛川西高第4回卒

 堀内良 先生(旧制掛川中学第42回卒

 松山薫 先生(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館) 

 

【主な参考文献】 (『一覧』『年表』『追懐録』以外は国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)

 『花房藩役人一覧』(明治3年,花房藩御用廻船問屋弥兵衛作成)

 『永冨謙八関連年表』(平成29年,松山薫先生作成,未定稿)

 『日本帝国 国会議員正伝』「岡山兼吉君」(明治23年,木戸照陽編)

 『明治新立志編』「岡山兼吉氏」(明治24年,篠田正作編)

 『嶽陽名士伝』「岡山兼吉君之伝」(明治24年,山田万作編)

 『在野名士鑑 巻之二』「岡山兼吉君」(明治26年,武部弁次郎編)

 『梧堂言行録』(明治28年,岡山同窓会編)

 『岡山先生二十三回忌追懐録』(大正5年,岡山同窓会編)

 『立身致冨 信用公録 第十五編』「浅田正文君」(明治36年,浦上新吾編)

 『財界物故傑物伝 上巻』「浅田正文」(昭和11年,実業之世界社編)