第6回

補遺(3) 牧田 義雄・波多野 承五郎

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


牧野 義雄

波多野 承五郎


 「東京の横須賀藩士たち(2)」で「掛川銀行のカウンターパートが掛川藩士(松尾藩士)ではなく、横須賀藩士(花房藩士)だったのは何故かと言えば、掛川藩士には横須賀藩士の永冨謙八岡山定恒浅井正文のように実業界で成功した人物が乏しいからだろう」と書いたが、明治中期以降の成功者、波多野承五郎(1858~1929)と牧田義雄(1849~?)とを取り上げたい。

 

 波多野安政5年(1858年)に掛川城下の町奉行屋敷で生まれた。家禄は500石と掛川藩では最高クラスである(家老でも500石未満の者がいる)。波多野には明治23年の第1回衆議院議員選挙を控えた明治22年に発行された『静岡県第5区候補者波多野承五郎君小伝』があるが、当然のことながらヨイショ記事が多いため、国会図書館の「近代日本人の肖像」から略歴を紹介する。

 父は掛川藩士。明治7年 慶応義塾卒業。同塾教師を経て、15年 東京市議、『時事新報』記者。17年に外務省へ入省し、天津勤務を経て、書記官となる。外務省退官後、25年『朝野新聞』社長兼主筆となる。以後 三井銀行理事、監査役等に就任、三井系の会社の重役を兼任する。大正9年から13年まで衆議院議員(第14回総選挙,栃木4区)。

 また明治15年岡山兼吉らと掛川で初めての政談演説会を開催したことは「東京の横須賀藩士たち(3)」に書いた通りである。なお衆院選は、第1回,第2回(明治25年)ともに落選した。

 

 ところで慶応義塾のサイト「人物詳細」「中上川彦次郎」を見ると、福沢諭吉の甥でもある中上川は明治15年に時事新報が創刊された時の社長であり、三井銀行とは下記の関係にあった。

 明治24年に不振の三井銀行再建のため理事として送り込まれ、翌年に実質上の頭取である三井銀行副長に就任し、不良債権の整理と、地方支店・出張所の閉鎖に着手した。まず人事権を行使し、藤山雷太,武藤山治,波多野承五郎,和田豊治,朝吹英二,鈴木梅四郎,平賀敏,藤原銀次郎・池田成彬ら慶応義塾で福沢諭吉の薫陶を受けた若者を入行させた。すると波多野は政界進出への夢破れた後、中上川の引きで三井に入社し、手腕もあったのだろうが成功を収め、晩年(62~66歳)に念願の政界進出を果たしたということになるのだろう。

 

 それでも三井の重役といえば大したもので、「時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家(大正5年)」にもノミネートされている。

 五十万円 波多野承五郎(三井重役)

 略歴:氏は半蔵の長男にして、安政元年(ママ)十一月を以て生る。少時慶応義塾に学び、曩に三井銀行理事王子製紙会社取締役北海道炭鉱汽船会社監査役等に挙げられしが、現時は三井合名会社参事東神倉庫株式会社取締役三井銀行三井鉱山株式会社各監査役たり。

 

 次に牧田義雄(1849~?)だが、家禄13石だから柳生家同様、直臣としては微禄である。

牧田には『男女修養 夫妻成功美談 第1編』(明治42年,東京実用女学校出版部)に「牛乳界の大立物 牧田牧場牧田義雄氏の夫妻奮闘成功記」という13ページの記事があるが、これと『慶応義塾出身名流列伝』(明治42年,実業之世界社)の2ページの記事とを合わせて、牧田の略歴を述べてみよう。

 

 牧田は嘉永2年(1849年)に江戸の藩邸で生まれた(柳生寧成の生まれた常盤橋内の上屋敷か、駒込の下屋敷かは不明)。藩校に入学するも、『名流列伝』によると、師弟ともにダラけていたので、文久3年(1863年)に安井息軒の塾に入り、更に慶応義塾に学んだ。

 

 明治11年金禄公債(華族や士族の家禄・賞典禄の代わりとして 明治政府が発行した公債)が下附されたが全て売り払って父に渡し、自らは『成功美談』によれば500円の借金をして(『名流列伝』によれば嚢底を叩いて200金を得て)、駒込に牧場を開設した。

 当時は牛乳を飲む人など殆どいなかったが、明治18年に帝国大学病院及び巣鴨病院へ牛乳を納入することになり、ます子夫人の内助の功もあって『成功美談』によれば300頭の乳牛(『名流列伝』によれば3,000頭の乳牛)を擁する「楽牛園」の園主となった。ます子夫人との間に長女羊子、長男犢爾、次女駒子がいる(子供の名前にヒツジ,子牛,ウマと付ける感覚が凄い!)。

 また牧田は東盛銀行(※1)の頭取にもなっており、牧田質店も経営している。

 (※1:明治30年に設立された駒込貯蓄銀行が明治36年に名称変更したもの。大正15年に営業認可を取り消された)

 

 牧田自身は「時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家(大正5年)」にはノミネートされていないようだが、東盛銀行取締役で元掛川藩士の秋山源蔵はノミネートされている。資産だけが社会的成功ではないが、波多野・秋山の2人が旧主である太田家と同様の資産家になった訣だ。

 

 五十万円 秋山源蔵(弁護士)

 略歴:氏は遠州掛川藩士敏夫の長男にて安政六年八月生。明治十二年東大を卒え、法学士となり判事に任ぜられ長崎控訴院鹿児島裁判所長崎地方裁判所長横浜裁判所長大審院判事に転じ、後官を辞し弁護士となり、起業銀行(※2)監査役たり。

 (※2:明治29年に設立された横浜起業銀行が明治34年に東京へ移転して改称したもの。昭和2年に解散)

 

 五十万円 太田資業(子爵)

 略歴 当家は源三位頼政の裔太田資国より出ず数代を経て太田道灌に至る。子は其十一世の孫にして遠州浜松(ママ)藩主先代資美の三男なり。明治十五年十月を以て生れ大正二年十二月家督を継ぎ襲爵仰付らる。

 

 《前々回の訂正です》補遺(1)で青島泰の略歴を明治24年刊行の『嶽陽名士伝』に基づき、「明治7年に掛川小学校(校長は幕臣の岡田清直<後述>である)の教員となった」と書きましたが、この「掛川小学校」は現在の掛川第一小学校ではなく、現在の中央小学校です。(恐らく校長は青島泰その人でしょう)

 『掛川市史』に明治7年の時習舎「私学願(開学願)」が記載されており、教師は青島泰、結社人(発起人)は南西郷村の山崎千三郎(掛川銀行初代頭取)、上張村の河井重蔵(掛川銀行第3代頭取)を含め17人です。(ちなみに掛川銀行第2代頭取は岡田良一郎

 

 時習舎は明治9年に南西郷学校、明治20年に中倫学校、明治27年に南郷尋常小学校、翌年に西南郷尋常小学校となり、昭和39年に掛川市立中央小学校となっています。

 一方、明治6年に設立された掛川学校は明治14年に掛川小学校、明治19年に掛川尋常小学校となり、昭和29年に掛川市立第一小学校となっています。

 『嶽陽名士伝』の編者、山田万作の略歴は分かりませんが、掛川の事情には疎く、2つの小学校を取り違えたのかもしれません。