第8回

「冀」とは何か? 「伯楽」とは誰か?

 

                             特種東海製紙㈱常任監査役 三谷充弘(高26回) 

 


「冀の金文(殷周の青銅器に鋳込まれた文字)」

 

 来月から前期掛川中学の英語教師だった黒川正(くろかわただす)の『掛川時代の回顧』を注釈付きで紹介するに先立ち、殆どの同窓生が誤解している問題につき触れておきたい。

 

 「冀」とは何かと問えば、「上古の中国の九州の一つ。東西を黄河に挟まれた地域」ということになるのであろう。(主権国家としての「中国」は20世紀初頭に成立した概念なので、19世紀以前について用いるのは正しくないのだが、大勢に従う)

 

 しかし、「掛川(逆川)」という実体があって「掛川」という地名ができたように、「冀」という実体があって「冀」という地名ができたはずである。では「冀」とは何か。後漢許慎『説文解字』では、意符「北」と声符「異」の形声文字とされているが、白川静『字統』によると、殷周の青銅器では「異」(「鬼」の正面形)に角型の装飾がある怪異な神像の象形文字で、「北」と「異」とに分解できる形ではない。要は怪異な神々や、それを模した呪術師たちが多く居たところなのであろう。

 なお許慎の時代には甲骨文字は知られておらず、殷周の青銅器の出土も少なかったことから、『説文解字』の解釈には誤りもあるが、漢字の歴史上、画期的な書物であることに変わりはない。

 

 さて『掛中掛西高百年史』は「ちなみに『冀北』とは、「伯楽冀北の野を過ぎて馬群遂に空しうす」の句で知られる中国の名馬の産地のことで、岡田良一郎が自ら名伯楽となり、幾多の駿馬を世に送り出そうとの意気込みが感じられる名前である」としている。

 しかし、この句の出典である韓愈「温処士の河陽軍に赴くを送るの序」(処士=仕官しない人)を一読すれば、伯楽とは後段に出てくる「大夫烏公」河陽軍節度使烏重胤761年~827年『旧唐書』『新唐書』に列伝あり)を指していることは明らかである。それは「伯楽冀北の野を過ぎて~」と対をなす「大夫烏公、一たび河陽を鎮して東都(洛陽)処士の廬に人無し」の句でも分かる。

そして韓愈は友人の温処士を大夫烏公が幕下に登用するので「心にわだかまりがある」と言い、烏公の登用を怨みつつも、彼を称賛しているのだ。つまり「伯楽」とは天下に人材を求める皇帝、或いは皇帝の代理人としての地方長官を意味している。岡田はそんな立場に立ったことはないし、目指したこともない。高校卒業程度の漢文読解力があれば、こんなことは簡単に分かるのだが、多分、誰も全文を読んでいないのだろう。この辺りの適当さが掛西らしくて好きである。

 

 そもそも韓愈の『雑説四』「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」でも明らかなように、伯楽は第一に「馬の目利きをする人」であって、「馬を育てる人」ではない。とはいえ冀北は名馬の産地であり、また韓愈の「温処士の河陽軍に赴くを送るの序」には「東都は固(もと)より士大夫の冀北なり」という句もあるので、岡田「掛川の地を冀北となさん」という気概はあったのだと思う。

 

 ところで岡田が得意としたという『春秋左氏伝』昭公4年には「冀之北土、馬之所生、無興国焉」(馬を産出する国は栄えないものだ)という句がある。それでも岡田が「冀北学舎」と名付けたのは何故だろう。「冀北」は「北を冀(こいねが)う」と読めるから、私は岡田が自らの尊王思想を秘めたネーミングだと思うのだが、考え過ぎだろうか。

 

 5月からのご愛読ありがとうございました。良いお年をお迎えください。